「~~~っくうぅぅぅぅッ! やっぱこういう日はビールですよ」
随分と親爺臭く唸った成歩堂は、上唇に泡を付けて笑みを浮かべる。
唐突な夏日の気温にだるそうにしていたのはつい最前の事だというのに。
すっかり機嫌をよくした彼は、肴に出してやった茶豆を一つ咥えて中の豆を吸うように頬張り、再びジョッキを煽っている。
「はー……しあわせ……」
一息に流し込むなりそう呟いて、テーブルの上にだらしなく顎を乗せた。
お手軽な幸福もあったもんだぜ、と神乃木は苦笑して緩みきった成歩堂の顔を眺める。
それから自らも同じようにビールに口を付けた。
舌に弾ける炭酸の軽い刺激。
清々しく鼻腔を掠める華やかな薫り。
喉奥へと流れ込んでいった後に残る、ほろ苦くも甘い風味。
その冷たい液体が胃に落ちた瞬間、体の隅々までが潤ったように錯覚する。
――なるほど。確かに、今日のような日の終わりにはビールである。
成歩堂の先の言を胸中で改めて納得していると、あからさまに不躾な視線を感じた。
「……なんだい、コネコちゃん」
「今、妙な笑い方しましたよね」
「――?」
「やーな感じー。ぼくの事であまり良からぬ事でも思ったんじゃないですか」
確かに考えていたのは成歩堂に関連する事柄であるが、別段悪し様に捉えていたのでもない。
「クッ……! 熱く滾る闇は常に芳しいアロマを纏っている……だが、そのアロマだけで誰もが判別できるほど珈琲は浅くねえのさ、まるほどう……」
「……ビール飲んでてよく珈琲が想起できますね。感嘆するばかりですよ。……それで?」
「アンタ……思い当たる節があるのかい?」
「最初っからそう言ってくださいよ。思い当たる節なんて……ある訳ないでしょう。だって今日もぼくは通常運転ですもん」
「だからこそ、だろうぜ」
「酷ェ」
顎をテーブルへ載せたままに成歩堂が眉を顰めて睨んでくる姿がおかしくて、神乃木は首を傾げて笑みを刷いた。
成歩堂は憤慨するかと思われたが、大して気に障る事もなかったようで存外あっさり白状した。
「まぁ、その。さっきの自分が親爺染みてたなって、ちょっとうんざりしたくらいですけど」
「よくわかってるじゃねえか」
「ゴドーさんもそう思ったんでしょ。だから笑ったんだ」
それでもやはり少し拗ねていたようで、成歩堂はそのままの姿勢で顔だけをつい、と背けてしまった。
だが、本気で気分を害しているのでもない事は勿論神乃木はわかっている。
ちょっとしたスパイス、とでも言おうか――七年もの歳月、けして短くはないその期間で培ってきた繋がりが、二人を近しくした結果の他愛もない戯れなのだ。
「いや……オレはビールが美味いなと思っただけだぜ。アンタが言ったとおりにな」
「何でその程度で笑うんですか」
「笑っちゃいけねえのかい」
思わず笑みを零すことすら咎められるとは。流石に神乃木も驚愕する。
「ゴドーさんの笑い方、なんかやらしいんですよ」
とんでもない言い掛かりである。
「……アンタ、そりゃやらしい事して欲しいって願望かい?」
恣意的に唇を歪めて見下ろしてやると、途端に成歩堂は起き上がって慌てふためくように激しく首を振った。
ビールを心底美味いと感じるのはいつだって最初の一口だけだ。
後は漫然とジョッキを空にして、別のアルコールに流れていく。
ならば最初から流れ着く先の酒を飲めばいいものを、敢えてビールを最初に選ぶのは、やはりその最初の一口が何にも変えがたく美味く思えるからだろう。
そうしてみると、ビールとは大衆的な割に果敢ない内情を抱えた飲み物である。
ビールを飲み続ける成歩堂に鰯の味醂干しを軽く炙る傍らで、神乃木は鮎を焼く。
塩塗れで串を打たれた鮎は、解禁されたばかりの若いものだ。
稚鮎ならば薄く衣を着けて天麩羅か唐揚げにしてもよいが、このサイズならば断然焼くに限る。
ジョッキに残ったビールを飲みながら加減を見る神乃木の脇で、成歩堂が冷蔵庫の製氷室を開けている。
その手には氷ポケットのついた切子の徳利を持っていた。
「鮎でしょ、それ。冷たいのがいいですよね」
返事を待つつもりはないらしく、ポケットにガラガラと氷を落としていく。
食に関わる好みはデリケートなものだ。
嗜好品である珈琲に特段の拘りを持つ神乃木は、当然珈琲以外の飲食にだって拘りがある。
とは言え、美食家などと気取った大層な拘りではない。
美味いとわかっている物を美味いと思えるように食べたいという程度の可愛いものだった。
「ワインセラーに純米生酒があったろう。ソイツの封を開けるといいぜ」
指定を出しつつ、勝手に判断してその辺りの機微を適当にこなすようになった成歩堂に神乃木はまた笑みが浮かぶ。
――成歩堂がまだ事務所住まいではなかった頃、広いとは言えない彼の部屋に訪ねた事がある。
その時に振舞ってくれた夕飯がカルボナーラとインスタント味噌汁だったのを考えると、成歩堂も随分わかってきたようである。
満足げに味醂干しを皿に上げた神乃木は次に米を量る。
こうして飲んだ後、成歩堂は大体においてご飯物を所望するのだ。
それも執拗に。
仕入れた鮎は四尾。焼いている鮎の内の半分でせっかくだから鮎飯にでもしようか。
きっと多くは食べないだろうから一合程度にして、出汁茶漬けにでもしてやって――と、そこまで考えてから神乃木も、なんだ、と呆れた。
結局は自分も「わかってきて」しまっているんじゃないか。
何が絞りたてやらよくわからないが、混じり物のない日本酒はみずみずしい新鮮さに満ちた爽やかなものだ。
これから盛りに向かう若い鮎の薫りを損なう事がない。
酒肴の組み合わせが甚く気に入ったらしい成歩堂は、まるで水の如くに気安く杯を空けていく。
成歩堂は酒に強い方だと思うが、酔いが過ぎると前触れもなく寝てしまう。
初めて見た時には驚いて神乃木が自分の罹り付け医に駆け込んだ程、それは突然訪れる。
出鱈目な造作をした体の成歩堂が過去に大風邪を引いた原因の殆どがそれだと言うのだから大概である。
当人も反省はしているらしく滅多に行き過ぎる事はないのだが、年に一回は昏倒していた。
気分宜しく飲んでいるのはいいが、このペースは危ないかもしれない――神乃木の頭の片隅で悪い予感がひしひしと渦巻き始める。
(……どうせオレの家だ。構うこたァねえか……)
しかし、直ぐにそう思い直し、神乃木はあっさり諦めた。
味醂干しを平らげ、鮎を平らげ、今度は茗荷のお浸しと焼いた筍を摘まんでいる。
「あっはっは。ぼくが焼いたから焦げちゃってる。もったいなーい!」
「……茗荷も茹ですぎだぜ。アンタ、もう胡瓜でも食ってろ」
焦げた筍の穂先を箸でつまんでケタケタと笑っている成歩堂に呆れ果てながら、神乃木は煙草に灯を点す。
まったく何という事をしてくれたのだろう。
今年の筍は異常気象で収穫が遅れ、しかも出来がよくなかったという。
毎年、真宵が里の竹林で採れたものを春美が届けてくれるのだが、例年に比べて身が細く数も少なかった。
貴重な筍だったのだ。
それでもあと一回はこれで炊き込み飯が作れたというのに、憐れ無残な姿である。
みぬきが楽しみにしていたと言うのに、碌でもない父親のおかげでこの様だ。
びちゃびちゃのぐずぐずになっている茗荷を口に放り込んで眉を潜めて咀嚼する神乃木を、成歩堂は不意に呼んだ。
「神乃木さん」
「……なんだ」
珍しく呼ばれた本名に目線だけ成歩堂に向ける。
成歩堂は淋しげとも、愛しげとも、如何とも言い難いような表情で神乃木を見ている。
「神乃木さんは、幸せですか」
躊躇いを一切見せず、成歩堂が問うてきた。
これまでの経緯と微塵も関連性のない、脈絡もない問いかけ。
哲学を語る学者のように厳粛な面持ちで、成歩堂は神乃木をじっと見つめている。
真っ直ぐに。
外郭からは窺い知れない成歩堂の思考は突飛で、時に余人の想像を超える言葉を齎す。
短絡的にも思えるそれは、しかし当人の中では明快に繋がった一つの思考の元で生まれていることを神乃木は知っている。
だから、何と応えていいのか、神乃木は惑う。
筋の通った会話の中でなら、成歩堂が気に入るように答えてやったり逆に揶揄したり、煙に巻いた言葉遊びを楽しむなりできるのだけれど。
この手の問いかけは、そうではないのだ。
そうしてはいけないのだ。
禅問答のようだ、と思う。
この問いかけに対する答えは、誰かに配慮した言葉ではなく、正解を模索した言葉でもなく、自分の内に秘めた真実と自ら向き合った答えでなければならないのだから。
適当な言葉で誤魔化す事はできない。
神や仏を信じている訳ではないけれど、否定している訳でもない神乃木は、こうした時に思うのだ。
神から命題を提示された瞬間の聖人達は、きっと今の自分と同じような心境ではなかったろうか、と。
そんな神聖なものでもないけれど、この感覚は限りなく近しいだろうと思うのだ。
逸らすことなく見据えてくる黒い双眸を、神乃木も見詰め返す。
陽光届かぬ青を秘めた深海のように不可思議な色合いをした眼は、神乃木の中の真実を暴こうと瞬く。
いい眼だ、と神乃木は思う。
記憶の彼方に過ぎ去っていった法廷で、逆境の中の遊戯を演じる中で、成歩堂はいつもこの眼で誰にも見えない真実を見ていた。
その眼に神乃木は容易く昂揚してしまう。
その眼の見ているものを自分も見たいと望んでしまう。
それがどんなに醜くても。
どんなに惨めでも。
(……いいぜ、『弁護士』クン。アンタの大好きな真実……)
みっともなく曝してやろうじゃねえか。
幸せ――改めて考えると神乃木にとってこれほど難解なものはない。
毒を盛られ五年も眠りこけている間に愛していた女は殺された。
やっと回復した時には後悔などできる状況ですらなく、身体機能さえも儘ならない不自由な肉体を抱えていた。
滾る憎悪にいつしか囚われ、どうしようもない過ちを犯した。
愛した女の妹を守るという大義名分の元に、愛した女の母親を殺した。
腐り果てた自分に真実を突きつけた唯一人の人物は、目を離した隙に見知らぬ者の情念に絡め取られて引き摺り下ろされていた。
そうしてぐだぐだと七年間、その気味の悪い怨嗟を共有して現在がある。
どう解釈しても幸福とは言い難く、また幸福になる資格もないだろう。
しかし神乃木は自分を不幸だと思わなくなったし、不幸で居続ける必要もないと思っている。
短くなった煙草の熱を指先に感じて神乃木はそれを灰皿に押し付けた。
じわりと広がる微かな痛み。
おいそれと幸せとは言えず、幸せではないと嘘も吐けない。
それを表す言葉を神乃木は見つけられない。
「ゴドーさん。……もう十年です」
答えあぐねている神乃木に、成歩堂は諭すような口調で静かに告げる。
神乃木は成歩堂の顔をもう一度見遣った。
「千尋さんが死んで、もう十年……アナタは、幸せですか」
穏やかな声の抑揚のとおりに、成歩堂の表情に感情の揺らぎは見えない。
それでも。
神乃木は見逃さなかった。
成歩堂が一瞬、言葉を切ったその一瞬に、問いかけの直前に見せたあの表情を浮かべた瞬間を。
その些細な変化に、神乃木は今度は得体の知れない不安を覚える。
いや、不安と言っていいのだろうか。
限りなく恐怖に近いが、それとは全く異なる、痛切で儚い感慨だった。
(……クッ! 何を臆していたんだ、神乃木荘龍……らしくねえぜ)
その感情を捉えた神乃木は特有の傲岸不遜な笑みを思わず浮かべていた。
「ゴドーさん?」
当然それは成歩堂の目に留まる。
訝しげに片目を眇めた成歩堂に、神乃木は今度は明瞭に成歩堂に見せ付けるようにして唇を歪める。
「ならば、逆に訊くが……アンタは、幸せかい? まるほどう」
「……ちょっと。ぼくが質問したんですよ。先に答えてください」
「人に物を尋ねるならば先に自分が答えるべきだろうぜ……アンタが答えたらオレも答えてやるさ。話してみな、コネコちゃん……聞いてやるぜ」
「ずっるいなぁ! そう言って誤魔化すつもりでしょう!?」
先程までのバカみたいに深刻で静謐な雰囲気が勘違いだったかのように、二人の間にいつもの空気が流れている。
だが、誤魔化すつもりなど毛頭ない。
幾ら空気が変わっても、あの真摯な問いの答えを示さねばならないと神乃木はわかっていた。
「アンタが答えたくないならオレが代わりに答えてやろうか……アンタは『幸せ』だと答える筈だぜ!」
「いやに自信満々だな!」
「だが……間違ってないだろう? コネコちゃん」
「……違わない……ですけど!」
そうでなきゃ困るぜ、と神乃木は内心ほくそえむ。
成歩堂のように本来は後ろ暗いところが何もない真っ直ぐな生き方をしている男が、幸せでない筈がないのだ。
幸せでないと感じるのなら、それは欲を張っているか不幸に憧れているかのいずれかだ。
「確かにぼくは幸せですよ! 酒は美味いし、飯もうまい!」
「しかもそれを提供してくれる人間がいる……至れり尽くせりだな、まるほどう」
「……何ですか、自分のおかげって言いたいんですか」
不機嫌丸出しにじっとりと睨んでくる成歩堂に、神乃木は哄笑したくなる。
それでも、このタイミングで笑い出せば成歩堂の機嫌を完全に損ねることは火を見るより明らかであるから、寸でのところで留めた。
「なぁ、まるほどうさんよ」
「何ですよ」
「オレも、酒は美味いし飯もうまい」
「そうでしょうとも。同じもの食べてるんだから」
「筍と茗荷は戴けなかったが……」
「五月蝿いな」
「美味い酒と美味い飯を食って、アンタの間抜けな顔を見る……それがオレの日常だ」
「馬鹿にしてんですか」
すっかり不貞腐れている成歩堂を無視して神乃木は続けた。
「そうした時に……淋しいと思う時がある」
「……!!」
拗ねていた成歩堂が瞠目する。
より一層大きく開かれた丸い目に、自分はどんな顔で映っているだろうか――それすらもわからないまま神乃木は瞭然と言い切った。
「それが、オレの答えだぜ……成歩堂」
幸せかそうでないか、という二つの答えのどちらかではないけれど。
それでも、成歩堂にはわかる筈だ。
その感情を、きっと知っているだろうから。
見開いていた目を数度瞬かせた成歩堂は、神乃木の予想通り此処最近では滅多に見せないあの笑顔を綻ばせた。
「……さて。そろそろ鮎飯が炊き上がる頃合だぜ」
「あ! ぼく山葵、生のやつ刻んでくださいね! チューブのは辛いから!」
「……」
鰹節を削る準備を始めた神乃木に、成歩堂がテーブルから注文をつけてきた。
本山葵のストックが残っていただろうか――神乃木はあからさまに剣呑な顔をする。
どうも最近食べ物に我侭になっている気がする。
甘やかしすぎただろうか。
それでも、成歩堂が美味しいと言う姿を見たくて、わざわざ冷凍庫を漁ったりしてしまうのだ。
炊き立ての鮎飯を小丼に盛る。
炊飯器で一緒に蒸していた焼き鮎をその上に乗せて、刻んだ山葵を添える。
テーブルに運んでから出汁を回し掛けてやると、待ちわびていたと言わんばかりに成歩堂は鮎飯茶漬けをすぐさま掻き込んだ。
猫舌なんじゃなかったのか、と思っていたら案の定「熱!」と舌先を出して涙ぐむ。
氷が溶けて徳利に溜まっていた水を杯に注いで渡すと、成歩堂はそれを口に含んでほっと安堵の吐息を漏らした。
「あー、熱かった……でも美味しい! しあわせ~……」
緩みきった表情でそう零す成歩堂の頭に、ぽん、と手のひらを乗せ、神乃木は「そりゃよかった」と呟いた。